昨年のこの日、打ち合わせを終えて家に帰った私は何気なくTwitterをチェックしました。
「地震」「すごい揺れた」「こわい」
震度を確かめよう、とつけたテレビを見ているうちに「見たことの無い」映像が現れました。
真っ黒な液体が畑や家を舐めるように、広がって行く空撮の映像。
液体に巻き込まれた建物が、燃えたまま押し寄せてくる。
液体の向かう先には、車が走っている。
少し高くなった道路の上で立ち往生するトレーラー。
その上に、人が立っている。
「逃げて」
テレビ画面に向かって、うまれて初めて叫びました。
昨年9月に宮城県に仕事へ行き、実際にその場所をタクシーで走ってもらいました。
仙台駅から名取市閖上地区、仙台市若林区・宮城野区、塩竈。
4時間ほど地元のタクシーを貸切にして、3万円程度で回れる範囲を全部回っていただきました。
見物客、と思われても仕方ありません。
仕事だけして黙って帰ることもできました。
ただ、私の仕事は多くの人に向けて書いたり話したりする仕事です。
少しでも「一次情報を得たい」、そう思って出かけました。
9月ではありましたが、震災は終わってなんかいませんでした。
仙台の市街地こそ賑わっていますが、黒い波にさらわれて町が消滅した地域では、草むらの間に車や船が刺さっています。
音がしません。
車を降りてみると、家の土台だけがずらずらと残っていました。
ここは、町だったのです。
人が住んでいたのです。
私たちと同じように、日常に追われ、明日が来ることを疑わずに。

ここにいた人たちの、無念を想像しても想像の範囲を超えます。
現場を見てしまうと「がんばろう」も「絆」もペラペラに感じます。
私の夫は、岩手県大槌町で3日間のボランティアに参加してきました。
同じように「言葉の虚しさ」を思ったとのことです。
これに関しては、阪大の元総長・鷲田清一氏の以下の言葉が言い当てていると思います。
「被災地のひとたちと、被災の全貌を知ることができずに遠くから案じるだけのわたしたちのあいだには、どうしようもない隔たりがあります。被災の現場に行って被災者の方々にインタビューする放送記者の人たちと被災者のあいだには、おそらくもっと大きな隔たりがあるかもしれません。
それはちょうど、介護施設でスタッフが食事のお世話をしながら『おいしい?』と訊ねることと、ユニットケアの施設でスタッフが入所者の人たちと同じ食べ物をともに口にしながら『おいしいね』と囁きあうこととのあいだの落差のようなものだと思うのです」
全文はこちら↓
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/president/ja/guide/president/files/h23_shikiji.pdf
現地に行ってからなお、私は言葉の難しさを思うようになりました。
職場を失った人がいます。
必死で経営してきた会社や工場を失った人がいます。

家族、家、思い出を失った人。

閖上小学校では、津波の引いた後、泥の中から発見された写真が展示されて持ち主を待っていました。
学校や友達を失った子どもたち。

持ち主たちは、元気でしょうか。
どこで、どう暮らしを立て直しているんでしょうか。
メディアが伝えるのは、表に出られる人の話がほとんどです。
私が一番印象的だったのは、あるアパートの部屋の様子でした。

このように、あるエリアには木造アパートが固まっていました。
凄まじい勢いで津波が建物を壊したのがわかります。
その中で、同じアパートなのにキレイに中が片づけられている部屋と、被災当時そのまま半年以上放って置かれた部屋があるのに気がつきました。
片付いている部屋は、住民の方か遺族の方が手を入れたのだろうと思います。
では、そのままの部屋は。
ひとり暮らしの高齢者の方で亡くなってしまったのか、
遠くに避難されて戻れないのか。


避難所を見るより、膨大ながれきを見るより。
「人が暮らしていた気配」が残っているこの部屋に入った時、最も津波の恐怖を感じました。
海岸から離れているのに、間に家がいくつも建っていたのに。
床が砂であふれている。

飲みかけの薬、普段づかいの食器、倒れた冷蔵庫の中には使い掛けのしょうゆが残っていました。
4月や5月に行ったんじゃないんです。
すでに震災から半年を過ぎた、9月のことです。
自分が、自分の親や友人がここに住んでいたとしたら。
映像に与えられるのではない、震災の現実を感じました。
たまたま、私たちは安全な場所にいただけです。
この部屋の住民はどうなったんだろう。
そう思って足元を見ると、携帯会社からの書類が届いていました。

名前をメモして、帰ってからパーソンファインダーや県警の名簿でチェックしましたが、見つかりませんでした。
震災があぶり出したのは、もともと日本が抱えていた高齢者問題、就職難問題、地域格差、私に関係のあるジャンルで言えば中小企業の経営問題など多くの課題なんだと、現場で考えました。
つまり、たまたま助かっただけの私たちにも、潜在する問題だということです。
体力のある人間達が、弱っている現地の人たちに自立の支援をするだけでなく、根本的な問題解決に動かなくてはいけない。
自分が得意とするジャンルにおける、課題解決のためにできることを。
少しずつでも行動に変えたいと今も願っています。
私の専門は中小企業支援と教育です。
皆さんもそれぞれ、得意分野があるはずです。
被災地に何かをするだけでなく、身の回りの人にできること、自分の地域にできること、家族にできることを考えてみてください。気負って大きなことをなくても「自分の持ち場でもう2割増し」、儲ける、経済を回す、アイデアを出す、誰かを喜ばせることを考えるだけで、何かが変わると思っています。
この辺りのことは、震災後に書いた文章にも書きました。
http://kikakusemi.blog129.fc2.com/blog-entry-23.html
自分には何もない、持ち場でできることは無いともし思う人がいれば、こちらのサイトを覗いてみて下さい。
http://fumbaro.org/
できることが、1つは必ず見つかります。
あと10年、メディアに促されなくても「忘れない」ために。
誰かひとり、被災地につながる人を持つのもおすすめです。
震災直後に「タスキプロジェクト」という支援に参加しました。
詳細の紹介はこちら↓
http://kikaku-web.com/goods/make/post-29.html
30代女性向けに、全てを失ったその人が避難所で使えそうなものをバッグに詰めて送る。
娘と同じ3歳児向けに、夫と同じ40代男性向けに。
娘とお揃いの服や、避難所で時間をつぶせそうな塗り絵やぬいぐるみを選びながら、段ボールで仕切られた体育館の冷たい床や、さわぐ子どもを抱いて気を遣う母親のことを考えました。
夏、私の袋を受け取ったという女性からハガキが来ました。
岩手県大船渡市の、50代の女性でした。
「気持ちは30代!と、袋を手に取りました」と冗談を交えながら、自宅が全て流されたこと、家族は無事だったこと、友人の紹介で賃貸住宅に入れたことが綴ってありました。
年賀状には、基礎だけになった自宅前で家族で笑った写真と、次の言葉がありました。
「一陽来復」
「日はまた昇る」……ハガキに書かれたこの言葉は、安全な場所から言うべき言葉ではない。
当事者だけにしか言う権利はない、と思うのです。
この方とつながったことで、少しだけ被災地を忘れずにいることができます。
想像力を働かせながら、自分の持ち場で、できるだけ。
1年経っても、この自問自答と小さな行動を繰り返すことしかできません。
まとまらない長文ですが、少しでも何かを考えるきっかけになればと思い、書いてみました。
今日だけのイベントや盛り上がりで終わらせてはいけない。
あふれる報道を見ながら、そう思っています。
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